理系女子の博物館探検
「名画の向こうがわ」
ツアー旅行でルーブル美術館に行ったことがある。ガイドのあとについてぞろぞろ歩き、ここですと言われてガラス越しに本物のモナリザと対面した。
そのときわたしが抱いた感想は「教科書と一緒」だった。
それじゃまずい、と、わたしは焦った。小説家たるもの芸術を解し愛する人間であらねばならぬのに。モナリザだよ。他に何かないの? 世界のモナリザ様ですよ?
以来、わたしは美術館コンプレックスを抱きつづけている。
ウフィツィ美術館の名画たちが京大博物館にやってきた。名画がやってきたといっても、その絵は本物ではない。最新技術でデジタル化したものを原寸大で印刷した精密なレプリカだ。なんだレプリカか、と思う人もいるかもしれない。でも、わたしにとっては、そこがよかった。もし、これが本物だったとしたら、ルーブル美術館の二の舞だ。片思いのまま振られた人に再会したみたいに、ギクシャクとした態度で絵と対峙し、傷を広げることになっただろう。
レプリカなら緊張しなくていい。ガラスもロープもないから、いくらでも目を近づけて観察できる。美術館では、解説なんて邪道だ、心で感じなきゃ、なんて通ぶってたわたしも、博物館でなら素直に聞ける。そして、聞いてみれば、どの絵にも謎があり、背景があり、秘められた生い立ちがある。見慣れたはずの有名な絵の中に新たな世界が広がっていく。
ああ楽しい。もしかして、わたし、美術館でもこんなふうに楽しめばよかったんじゃないだろうか。そもそも、美術館で展示するということ自体、作品本来の趣向と違うはずだ。今のわたしたちとは文化も考え方も違う大昔に生きた人の屋敷に飾られ、ゆったりした空間の中でお茶でも飲みながら眺めていたであろう絵が、一つの建物に集められ、ガラスケースで守られている。それを、ぞろぞろと行列をなして、人ごみの隙間から見るのだから、純粋な鑑賞なんてできるわけがない。そう開き直ってもいいんじゃないだろうか。
なんだか、美術館って動物園みたいだ。檻越しに珍しい動物を眺めるような、そんな感じに似ている。で、美術館が動物園なら、デジタルミュージアムは精巧な図鑑だろう。図鑑をめくり、部分を拡大した解剖図で仕組みを詳しく知ることができる。
現代に生きるわたしたちは、昔の名画の「野生状態」を決して見ることはできない。でも知識があれば想像することはできる。誰がどんな目的でどんな思いを込めたのか。どんな時代に描かれ、どんな技術があったのか。知れば知るほど、馳せられる思いは広がっていく。
絵は芸術でもあり、昔の人々の思いを伝える遺跡でもあるのかもしれないと考えて、わたしは、ここが美術館じゃなく博物館であることを、今さら思い出した。
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