これから、一ヶ月に一度、ミュゼップがお送りする素敵なエッセイがスタートします。
其の壱、は、さっき届いたばかりなので、ここに掲載します!
京都大学医学部大学院卒の小説家 寒竹泉美(かんちく いずみ)さんの「理系女子の博物館探検ものがたり」です。やわらかい感性のエッセイをお楽しみ下さい!
ミュゼップ・サロンエッセイ
■ 二つのマリア十五玄義図 ■
オレンジ色のライトがほのかにともる薄暗い空間の中で、二つのマリア十五玄義図が、ガラス越しに向き合っていた。激しいキリシタン弾圧の歴史の中で、厳重に隠され、長い時を経て発見されたそれらの玄義図は、修復してもなお、しわや破れのあとが大量にあって痛々しかった。それは、この図が観賞用の宝物ではなく、祈るための実用物だということを表している。広げては祈り、見つからないようにきつく巻いて隠した、そんな様子が思い浮かぶ。
本当のことを言うと、わたしは、命賭けで信仰を守った隠れキリシタンたちが恐ろしい。社会の授業や歴史物語で彼らの存在は知っていたけれど、今までまともに向き合おうとは思わなかった。隠れキリシタンだけじゃない。死を覚悟で革命を起こした人たちや、自分の命を投げ出してまで誰かを助けた人も恐ろしい。わたしにはできないと思うからだ。人間にそんなことができるのか、と驚けば驚くほど、ただ、ぬくぬくと自分のことだけ考えて生きている自分が小さくてわびしいものに思えてくるからだ。
わたしなら、弾圧されたら、命のほうが大事だから、信仰をさっさと捨ててしまう。マリア十五玄義図を隠し持ってるなんてとんでもない。見つかったら殺されてしまうから、さっさと処分してしまう。
京大博物館に来て実際の玄義図を見るまでは、そう、思っていた。
でも、本物の玄義図をぼんやりと眺めているうちに、これを必死で守ってきた人たちも、特別な人ではないかもしれないという思いが頭をよぎった。彼らと同じ時を過ごした玄義図が目の前にあるおかげで、彼らのことを身近に感じてしまったのかもしれない。
もし、彼らが、今のわたしのようにお気楽な生活をしていれば、わたしと同じような考えを持っていたかもしれないし、逆に、もし、わたしが弾圧の時代に生きて、日々の苛酷さと自分の存在が否定されることに耐えかねていたとしたら、彼らと同じ強い信仰を持ったかもしれない。
彼らはわたしだ、そう思った途端、恐ろしさは希望に変わった。
このマリア十五玄義図がいったいどういうものなのか。
その謎を解き明かしていく様子が、隣の部屋に分かりやすく
展示されていた。そこには、最新の科学と技術がふんだんに使われていた。ああ、科学はこんなふうにも使えるのだ、と思った。病気を治すとか、自然現象を解明するとか、そういうことだけじゃなく、今はここにいない誰かの思いを聞き取るためのツールにもなる。
彼らはわたしだ。研究している人たちも、マリア十五玄義図を見にくる人たちも、心のどこかに、そんな思いを抱いていて、だからこそ、この図に惹きつけられるんじゃないか。そんなことを思った。
寒竹泉美
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